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学術論文
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年度
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論文題目名
Title of the articles
共著区分
Collaboration
   Classification
NeoCILIUS
   請求番号/資料ID
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掲載誌名 Journal name,出版機関名 Publishing organization,巻/号 Vol./no.,頁数 Page nos.,発行年月(日) Date
2018  「魂は質料と形相から複合されたものであるか」―トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』―  単著   
南山神学  , 南山大学人文学部キリスト教学科  , 42  , pp. 69-98  , 2019/03   

概要(Abstract) In this question 6, Thomas examines whether the soul is composed of matter and form. Refuting the assertion that the soul is composed of matter and form based on the appearance that some properties of matter can be found in the soul such as to receive something, to be a subject, and to be in potency, Thomas shows that the soul is not composed of matter and form, but form only (forma tantum). He says the intellect of the soul can receive something and is in potency, but in a different meaning from that which is in corporeal things, because the soul is immaterial. Also, the soul, as form of the body, is the principle (principium) of existence (esse). It receives its esse and communicates it to its body. Hence, the soul has its own existence, and so it is the forma per se subsistens; accordingly it can be separated from the body. Nevertheles, according to Thomas, there are both act and potency in the soul, because the soul is not identical with its own existence like God, thus the soul needs to receive esse from God. Because the very essence of the soul is related to existence as its proper act, inasmuch as the existence itself is the act of the soul as the subsisting form which is not identical to its existence. In this question 6, we can see the crucial point of Thomas’s understanding of the human soul, which can be both the form of the body and substance subsisting of itself, in terms of his own theory of esse. 

備考(Remarks)  

2017  「能動知性は単一であり離在しているのであるか」―トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第5問題について―  単著   
南山神学  , 在名古屋教皇庁認可神学部・南山大学人文学部キリスト教学科  , 41号  , pp. 81-111  , 2018/03   

概要(Abstract) 『定期討論集 魂について』第4問題においてトマスは能動知性を措定する必要性について論じた後、第5問題においては能動知性が離在的実体であり、したがって全ての人に唯一であるか否かについて論じている。トマスの答は否である。普遍的な能動原理の存在(神)は認めつつも、トマスは人間の知性認識が各々の人のものであるために、個別の能動的原理がなければならないとする。それがまさに能動知性なのである。トマスはアリストテレスが『魂について』で述べている離在的で永久的で不死的な知性とは、能動知性についてなのではなく「現実態にある知性」について述べているのだと解する。それによって、アリストテレスが人の可能知性も能動知性も共に各人の魂の知性的部分に属すると考えていたことを明らかにしている。 

備考(Remarks)  

2016  能動知性を措定することは必要であるか」―トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第4問題について―  単著   
南山神学  , 教皇庁認可神学部  , 40号  , pp. 129-152  , 2017/03   

概要(Abstract) トマスはQDA第4問題において人間の魂における能動知性の措定の必要性について論じている。トマスはアリストテレスの『魂について』の独自の解釈に基づいて、人間の魂においては可能知性と能動知性の両方の知性的能力が措定されねばならないとする。可感的事物の可知的形象はこの事物の世界にあらかじめ自存しているのでなく、知性によって作り出されねばならないからである。トマスの後期の著作において、その必要性がより強調されている傾向が見られる。 

備考(Remarks)  

2016  「可能知性もしくは知性的な魂は全ての人に一つであるか」―トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第3問題について―  単著   
南山神学  , 南山大学人文学部キリスト教学科  , 39号  , 181-223  , 2016/03/31   

概要(Abstract) 『定期討論集 魂について』第3問題においてトマスは、アヴェロエスのアリストテレス解釈を批判して、可能知性が離在的な実体であり全ての人間に一つであるという説を論駁している。この論駁はトマスの独自の人間観に基づくものであり、この論駁を通して我々はトマス自身の存在論、認識論をよりよく理解することができる。 

備考(Remarks)  

2014  人間の魂は存在的に身体から分離しているのであるか―トマス・アクィナス『定期討論 魂について』第2問題について  単著   
南山神学  , 南山大学人文学部キリスト教学科  , 38号  , pp. 145-187  , 2015/3   

概要(Abstract) トマス・アクィナスはこの討論において、人間の魂が存在的に身体から分離しているのか、あるいは形相として身体と一体となっているのかについて論じている。この論議の背景には当時のラテン・アヴェロエス主義者たちとの論争がある。トマスは魂は存在的に身体と合一しており、離在するものではないとし、しかし合一していながらも知性的なはたらきにおいて身体の受容能力を超出していることを主張する。 

備考(Remarks)  

2013  分離した魂は物体的な火によって罰を受けることができるか―トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第21問題 解説,翻訳と註―   単著   
南山神学  , 在名古屋教皇庁認可神学部・南山大学人文学部キリスト教学科  , 37号  , pp. 85-116  , 2014/03   

概要(Abstract) トマス・アクィナスのQuaestiones disputatae de anima, q. 21の解説と和訳。このテキストでは死後に分離した魂が地獄あるいは煉獄で物体的な火によって苦しめられ、罰を受けることができるか否かが考察されている。聖書の言葉に基づき、断罪された人間と悪霊たちは同じ火で苦しめられるとされる。キリスト教信仰によれば、死後、人間の身体は滅び、魂は分離して存続する。そしてこの世の終りに、神によって全ての人間は再び身体が与えられ、復活するのである。復活した人間に罰を与える火は、身体を罰するために物体的な火でなければならない。それゆえ、悪霊たちを苦しめる火も物体的な火であり、分離した魂を苦しめるのも、同じ物体的な火であることになる。ところが、悪霊と同様、分離した魂は非物体的な存在であり、感覚能力を持たないのである。そのような魂や悪霊がどのような仕方で物体的な火によって苦しめられることができるのかが、問題となる。結論としてトマスは、物体的な火は神の正義の道具として働き、悪霊や魂を縛りつけ拘束することによって、魂に内的な悲しみを与えることによって苦しめられるとしている。最大の悲しみは神から引き離されることによって生じるのである。このQDA q. 21には、他の並行箇所にはない、この問題に対するトマスの最も熟慮された綿密な見解が見られる。 

備考(Remarks)  

2011  「「感覚的能力は分離した魂の内に存続するか」トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第19問題 解説、翻訳と註」  単著   
『南山神学』  , 在名古屋教皇庁認可神学部・南山大学人文学部キリスト教学科  , 第35号  , pp. 85-110  , 2012/03   

概要(Abstract) トマス・アクィナスは『定期討論集 魂について』第19問題において、魂の感覚的能力が、魂が身体から分離した後も魂の内に残るか否かについて論じている。トマスははじめに、魂の諸能力とは魂の本質そのものではなく、魂の本質から生じる自然本性的な固有性(proprietates naturales)であることを確認する。魂の能力は、固有性として附帯性なのである。トマスによれば、反対対立するものを持たない附帯性は、その基体が滅ぼされない限り滅ぼされることはない。魂の諸能力はこのような反対対立するものを持たない附帯性である。それ故、魂の能力はその基体の消滅によって滅ぼされる以外にはない。そこでトマスは、感覚的能力の「基体」とは何であるのかを明らかにする。トマスによれば、能力(potentia)の基体とは、その能力に即したはたらきを行うことができるもののことである。それ故、その能力を根源とするはたらきの基体であるものが、当然、その能力の基体であることになる。従って、感覚的能力の基体とは、感覚的なはたらきの基体であるものに他ならない。トマスは言う。感覚的能力のはたらきは、魂のみを基体としてはたらくのではない。その能力のはたらきの基体は、身体と魂からなる複合体である。感覚的能力のはたらきは、魂によって、身体と魂の複合体に属するのである。それ故トマスはこう結論づける。魂の感覚的能力は、基体の内にあるような仕方で複合体の内に在るのであり、それは根源から生じるように魂から生じる。つまり感覚的能力という附帯性は複合体を基体としてその中に存在する。それ故、身体が滅びて複合体が消滅すると、それと共に感覚的能力のはたらきも消えてしまう。基体が滅びれば附帯性は存続できないからである。しかし感覚能力が魂から完全に失われてしまうわけではない。トマスによれば、その能力は分離した魂の内に、現実態として残るのではないが、根源の内に残るような仕方で潜在的に残るのである。 

備考(Remarks)  

2010  「「分離した魂は全ての自然的なるものを知性認識することができるか」トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第十八問題 翻訳と註」  単著   
南山神学  , 南山大学  , 34  , 63-91  , 2011/3   

概要(Abstract) In question 18, Thomas discusses whether the soul, after being separated from its body, will be able to know the quiddity or essence of all things naturally intelligible to the soul. While the soul is united with the body in this life, it cannot acquire the knowledge of all natural things, because of its way of knowing, that is, to know by acquiring the intelligible species by abstraction from material things; but when it is separated from the body, the soul will receive the influx of all intelligible species at once from higher substances. Through this influx, Thomas says, the soul will be able to understand all natural things. However, the separated soul knows them not perfectly but in a qualified way. Intelligible perfection is present in all intellectual substances, but not in the same way. Since the human soul is the lowest of intellectual substances, its natural intellective power is not able to achieve perfect knowledge through the infused intelligible species. Consequently, according to Thomas, the separated soul can understand all natural things by its natural intellectual power, but only imperfectly, that is, in a kind of universal and confused way, not in a distinctive way. 

備考(Remarks)  

2009  トマス・アクィナスにおける人間の魂の離在的実体の認識について  単著   
南山神学  , 南山大学  , 33号  , 165-92  , 2010年3月   

概要(Abstract) 人間の魂の離在的諸実体の認識については、Quaestiones de anima, qq. 16-17 と Summa theologiae I, qq. 88-89 に詳しく論じられている。トマスは、人間の魂はこの世においては離在的実体が何であるかを知りえず、ただそれが存在することを知るのみであるとしている。しかし死後にはそれらを知り得るとしている。分離した魂は離在的諸実体と類的に同じ存在であり、同じ認識様態を有するとしているからである。では、この世において身体と結合し認識して行く努力は無駄であるのか。トマスはそうでないと言う。人間はこの世において超自然的な認識へと向って歩むべきものなのである。人間の自然的な認識の力とその限界に焦点をあてて語るトマスに着目し、人間の究極目的への歩み、離在的諸実体との相違などの観点から、この論説に込められたトマスの意図を読み取りたい。 

備考(Remarks)  

2008  「分離した魂は離在的諸実体を知性認識することができるか」トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第十七問題およびその平行箇所,『対異教徒大全』第三巻 第四十五章と『任意討論』第三討論 第九問題 第一項 翻訳と註  単著   
南山神学  , 南山大学  , 第32号  , 71-102  , 2009/03   

概要(Abstract) In Disputed Questions on the Soul, question 17, Thomas Aquinas deals with the question of the possibility of the human soul’s natural knowledge and understanding of separate substances when the soul is separated from its body after death. This question has a close relation to the preceding question 16 in which he proves that the human soul cannot attain to understand the quiddity of the separated substances when the soul is united with its body in its present life. According to Thomas, this impossibility comes from the soul’s way of knowing when it is united with its body. Insofar as the soul is united with its body, the soul has to acquire the intelligible species abstracted from material things, and so the soul can acquire the knowledge of things inasmuch as it is led thereto through the species of this kind.
In contrast, when the soul is separated from its body, Thomas says, the soul will be able to know the separated substances. According to him, the human soul knows things in one way when it is united to its body, and in another way when it is separated from the body. The separated soul will know things in the same manner of knowing as the separate substances. Thomas says that by its essence the separated soul belongs to the genus of separate intellectual substances and has the same mode of subsisting. When the soul is separated from the body, it will be able to receive the influx from separate substances or from God, and know things through the infused species by immediately understanding its own essence. However, according to Thomas, the human soul will not be able to know separate substances as perfectly as these separate substances know each other, because the soul is the most inferior among intellectual substances and receives the emanation of intelligible light in the lowest degree. 

備考(Remarks)  

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