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年度 Year |
著書名 Title of the books |
著書形態 Form of Book |
NeoCILIUS 請求番号/資料ID Request No |
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出版機関名 Publishing organization,判型 Book Size,頁数 No. of pp.,発行年月(日) Date | |||
2023 | 『つなぐ世界史』2 近世 | 未設定 | |
清水書院 , 未設定 , 2023/06/14 | |||
概要(Abstract) 第4章「19世紀の世界」の一節「愛知の「ものづくり」のルーツをたどる」を担当。 |
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備考(Remarks) |
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2021 | 『城郭の怪異』 | 未設定 | |
三弥井書店 , 未設定 , 2021/06 | |||
概要(Abstract) 「名古屋城ー見守る櫃と天狗と狐たち」を執筆。 |
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備考(Remarks) |
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2015 | 『城下町と日本人の心性ーその表象・思想・近代化』 | 共著 | |
岩田書院 , A5 , 2016年3月31日 | |||
概要(Abstract) 「名古屋城の描写と意識の変遷ー江戸時代から近現代にかけてー」(単著)pp.96-126(31p.)、「近世における城下町内河川の維持ー江戸・京都・大坂・名古屋の場合ー」(単著)pp.241-272(32p.)の2本の論文を掲載。 |
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備考(Remarks) |
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2009 | 『新修名古屋市史』資料編近世二 | 共著 | BA31311155 |
名古屋市 , B5 , 2010/03 | |||
概要(Abstract) 第三章「発展する商工業」の資料の翻刻と校訂、同章第一節「犬山屋神戸家」、第二節「麻屋吉田家」、第三節「水口屋小川家」、第五節「水野太郎左衛門家」、第六節「津田助左右衛門家」の解説(第五節のみ、天野雅俊と共同執筆、約50%を担当) |
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備考(Remarks) |
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2006 | 『新修 名古屋市史』資料編近世一 | 共著 | |
名古屋市 , B5 , pp.720-730. , 2007/03 | |||
概要(Abstract) 名古屋の商人伊藤次郎左衛門家(現・松坂屋)資料の翻刻と解説を行った。 |
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備考(Remarks) |
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2002 | 『長久手町史』本文編 | 共著 | |
長久手町 , 未設定 , 768 p. , 2003/03 | |||
概要(Abstract) 第二編中世第四章第一節「人々の生業と暮らし」pp. 221-229.(9 p.)、第二節「物資・貨幣の流通」、pp. 229-244.(16 p.)、第三編近世第五章「人々の生業と交通」、pp. 387-403.(17 p.)を担当。中世および近世の、長久手の交通と経済について解説。 |
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備考(Remarks) |
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1998 | 『新修 名古屋市史』第三巻 | 共著 | |
名古屋市 , 未設定 , 961 p. , 1999/03 | |||
概要(Abstract) 第五章第四節「名古屋の諸街道」、pp. 331-349.(19 p.)、第九章第三節「都市商業の展開」、pp. 603-641.(39 p.)を担当。 |
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備考(Remarks) |
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1997 | 『尾西市史』通史編上 | 共著 | |
尾西市 , 未設定 , 965 p. , 1998/03 | |||
概要(Abstract) 近世編第一章第四節(一)「起渡船場の成立」、pp. 302-303.(2 p.)、(二)「起宿における渡船場の運営」、pp. 303-331.(29 p.)を担当。表題について解説。 |
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備考(Remarks) |
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1997 | 『犬山市史』通史編上 | 共著 | |
犬山市 , 未設定 , 846 p. , 1997/11 | |||
概要(Abstract) 第三編第五章「木曽川と街道」、pp. 723-788.(66 p.)を担当。犬山の陸上交通、河川交通について解説。 |
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備考(Remarks) |
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1996 | 『公義御茶壺一巻留』 | 共著 | |
名古屋市市政資料館 , 未設定 , 301 p. , 1997/03 | |||
概要(Abstract) 「御茶壺道中と街道の人々」、pp. 34-44.(11 p.)を担当。毎年一度、江戸と宇治を往復する御茶壺道中は、将軍自身が使用したり、将軍家祖廟や禁裏への献上茶にされる御用茶を運ぶものであり、道中では摂家や宮家、門跡と同様に扱うように定められていた。この茶壺道中のために宿駅に課せられた接待の規定とその変化、役人の接待に関わり発生した事件から、茶壺道中の問題点を探る。慶長18年(1613)に採茶使を派遣したのに始める茶壺道中は、寛永9,10年(1632,33)に制度化され、数寄屋頭1名他が随行することなった。茶壺の数はときに50以上に上り、岡崎宿では復路で330人もの人足を提供したときもあった。街道沿いには茶壺の権威をおとしめぬよう、様々な注意が触れ出され、経済的にも日常生活上でも近隣住民に大きな負担を与えたのである。享保8年(1723)には道中の簡素化が命ぜられた。二条城大番、大坂城番士の交代と茶壺道中の日程を合わせ、大番や番士らに茶壺の警護をさせることとしたのもこのときである。しかし、数寄屋頭と大番や番士の上下関係が明確でないことから、宿駅での接待が混乱した。また、正式な茶壺ではないのに茶壺と称して運搬を命ずる者が現れるなど、茶壺道中が地元住民に与えた影響は小さくなかった。 |
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備考(Remarks) |
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