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学術論文
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22 件中 11 - 20 件目

年度
Year
論文題目名
Title of the articles
共著区分
Collaboration
   Classification
NeoCILIUS
   請求番号/資料ID
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掲載誌名 Journal name,出版機関名 Publishing organization,巻/号 Vol./no.,頁数 Page nos.,発行年月(日) Date
1998  尾張藩における渡船場支配 -水難事故と防止策を中心に-  単著   
『東海地域文化研究』  , 東海地域文化研究所  , 第9号  , pp. 113-125.  , 1998/07   

概要(Abstract) 宝暦7年(1757)、美濃国厚見郡の尾張藩領池之上村の渡船場で転覆事故が発生、2人の船頭と30人ほどの乗客の内、船頭1人と客10人が水死した。この渡船場は尾張藩から支援を受けず村の費用で維持されており、例えば尾張藩だけでなく幕府の支配をも受ける美濃路の起渡船場よりも遙かに小規模なものである。しかし、この事故の2年後、尾張藩は領内の渡船場を調査し、①藩や村が運営に関わる渡船場、②個人が運営する渡船場、③耕作用の船を持つ者がその片手間に渡船をしているような場所に分類し、それぞれに定を出した。①②については渡船の安全運行の厳守を命じ、③については渡船業務を禁止したのである。なお、③の渡船禁止は、言い換えれば、村や藩の監視の行き届かないところでの旅人の自由な渡河を禁止したものでもあり、安全運行だけでなく防衛、治安上の目的も含まれていると捉えることもできよう。(加筆訂正し、著書『尾張藩水上交通史の研究』に掲載) 

備考(Remarks)  

1997  享保-宝暦期における名古屋商人神戸家の「有物勘定帳」  単著   
『南山経済研究』  , 南山大学  , 第12巻1号  , pp. 79-94.  , 1997/06   

概要(Abstract)  名古屋の材木商、神戸家には総合的な経営帳簿「有物勘定帳」が、18世紀前期のおよそ20年間分残されている。各帳面は、資産勘定と損益勘定の二部に分かれた複式簿記の形式をとっており、三都を除く地方都市の中では先進的な会計技術の導入がみられる。但し、両勘定で出された純損益が一致するのはわずかである。一致しない理由として、事業経営と家計が未分化であることが考えられる。(本研究ノート執筆時は自身で撮影したネガフィルムをレンズで見ながらの作業で、細部の研究にいたらなかったが、近年、紙にプリントしたものを入手することができたため、改めて資料を読み直し分析し直した結果が、学術論文「近世前期の名古屋材木商犬山屋神戸家の経営」である。) 

備考(Remarks) 研究ノート 

1996  尾張藩円城寺奉行の変遷  単著   
『郷土文化』  , 名古屋市郷土文化会  , 第51巻第1号  , pp.51-56.  , 1996/08   

概要(Abstract) 張藩は木曽川沿岸の支配を川並支配と呼び、担当の官庁を置いていたが、その変遷はめまぐるしく、官庁や役職の存在は知られていてもその実態は明らかにされていない。本稿の目的は、川並支配担当の役職の一つ、円城寺奉行の実態と変遷の解明である。円城寺奉行は、延宝元年(1673)木曽川右岸、美濃国の尾張藩領円城寺村に置かれた役職で、始めは尾張藩士が任じられたが、その後円城寺村の土豪、野々垣家の当主が世襲した。管下には美濃国尾張藩領の円城寺、野村、鵜沼に置かれた川番所がある。各番所においては、藩領のみならず旗本領に流れ着いた流木の検閲、木曽川を上下する材木の送り手形、木曽川の夜警を担当する。江戸時代中期の一時期、対岸の尾張国北方村に設けられた北方奉行と川並支配を月交代で担当することもあったが、享保11年(1726)には廃されて、北方奉行は尾張側、円城寺奉行は美濃側を常時担当することとされた。 

備考(Remarks)  

1995  近世尾張における犬山渡船場の運営  単著   
『南山論集』  , 南山大学  , 第24号   , pp.1-17.  , 1996/03   

概要(Abstract) 木曽川中流左岸の犬山は、鵜飼屋と内田、二つの渡船場が存在する。この犬山は、濃尾平野の東北の際、別の言い方をすれば木曽山への入り口に位置しており、そのため材木輸送の拠点としてまた軍事的拠点として重要視されていた。犬山城の周辺には城下町も形成され、安土桃山期には周辺の商業中心地としても成長した。そのような地において、近接する二つの渡船場の機能の違いを運営の面から明らかにするのが、本稿の目的である。藩営街道である稲置街道に属する内田には、領主より船頭給が出され、船の維持にも援助があった。一方の鵜飼屋には藩から何の補助も無い。この渡船場は、木曽川水運の拠点、特に材木筏の中継場所である犬山湊と同じ位置にあり、渡船場の利用者は主に筏師で、その便宜のために設置が認められたものである。実は犬山城下町に近いのも鵜飼屋であり、筏師以外の町人らの利用があった可能性は高いが、内田との間に乗客の取り合いがあったとの記録はなく、両者の住み分けは問題なく行われていたとも考えられる。 

備考(Remarks)  

1995  尾張藩船手役所による船方支配  単著   
『経済社会学会年報』  , 経済社会学会  , XVII  , pp. 249-264.  , 1995/08   

概要(Abstract) 当時、まだ研究が進んでいなかった尾張藩船手役所の組織、支配とその変遷の整理を試みた。組織の長、船奉行は、初め海防を司っていた千賀家が担当し、後に他の尾張藩士も加わって海方と川方に分割され、さらに両者を統合して熱田奉行と千賀家の二人役となり、収まった。末端組織には、船大工の長となる御船大工、知多半島の廻船を統括する廻船惣庄屋、熱田からの出船入船をみる船会所、村に置かれた船庄屋などがある。(加筆訂正し、著書『尾張藩水上交通史の研究』に掲載)
 

備考(Remarks) 研究ノート 

1993  近世における渡船場支配ー尾張藩領内田渡起渡を中心としてー  単著   
『法制史研究』  , 法制史学会  , 第43号  , pp.243-69  , 1994/03   

概要(Abstract)  木曽川にかかる二つの渡船場、内田と起を取り上げ、それを比較することで、幕府の支配がどの程度尾張藩領内に食い込んでいたかを明らかにした。犬山城下町のはずれにある内田は稲置街道の渡船場で、稲置街道は、江戸や尾張藩領の木曽山に通ずる中山道と名古屋とを結ぶ重要街道であった。尾張藩はこの街道に宿駅を設置しており、稲置街道はいわば藩営の街道ともいえる。そこに属する内田は政治的、経済的、そして軍事的にも重要な地点であったが、幕府の管轄には入っておらず、たとえ幕末であっても、この渡船場に対して財政補助や触出しなどの形で幕府が干渉した形跡はない。五街道に準ずるものとして幕府道中奉行の管轄下にある起渡船場でさえ、直接的に渡船場の運営に関わることはなかった。平時における、末端組織の船庄屋の任免認可、船の運行に関わる財政補助などは全て尾張藩の手にゆだねられていたし、幕末において、幕府が起渡船場に財政支援を出したときでさえ、尾張藩が幕府と渡船場の間に立っており、しかも起に渡された幕府の補助金は、全額ではなかったのである。以上のことから、尾張藩においては、たとえ幕府の道中奉行の支配下にある渡船場であっても、幕府から干渉を受けることはほとんどなかったことがわかった。 

備考(Remarks)  

1992  近世後期における木曽川河川水運について  単著   
『南山論集』  , 南山大学  , 第21号  , pp.27-57.  , 1993/03   

概要(Abstract) 木曽川の起には、上記論文1,2でみた渡船場としての機能のほか、物資流通拠点の湊としての機能も備わっている。本稿では、年貢米や商品の輸送手続きと、出荷される商品の種類、量を整理した。起と木曽川下流を行き来する船は、途中の神明津船番所を通過するときに、船荷や量を記した船手形を提示せねばならない。その手形を帳面に記載したのが起の船庄屋林家に残る「下船神明津手形留」である。江戸時代後期において、起の船持は木曽川沿いの商人の商人と取引関係を持ち、河口の桑名、四日市を中継にして名古屋をはじめ伊勢湾岸一帯へ商品の移送をしていた。その一方で、武家階級の年貢米の移送の負担も負っていた。年貢米には、藩に納入される蔵米と家臣が給知から集める給人米があり、史料から、前者の輸送を受ける船持が少なかったことが判明した。その理由として、①藩の御用ということで商荷よりも低い定額運賃しか支給されなかったこと、②蔵米の量が大量で、他の商荷を運賃積みすることで不足する運賃を補填することもかなわなかったことが挙げられている。武家階級が自身で定めた低額運賃による交通輸送が、他階級の高額運賃の負担によってまかなわれている状況は渡船場や宿駅の利用でみられるが、年貢米輸送においても、同様であったことがわかった。 

備考(Remarks)  

1991  江戸時代後期における徳川幕府・尾張藩の渡船場支配  単著   
『南山論集』  , 南山大学  , 第20号  , pp.89-113.  , 1992/03   

概要(Abstract) 木曽川は、東西の防衛ラインとして御三家の一つ尾張徳川家に幕府より支配が任されていた。木曽川にかかる起渡船場も当然尾張藩の管轄下にあるが、一方、起を含む街道の美濃路の支配の頂点には、幕府道中奉行があった。本稿では、渡船場を通じて幕府が藩領にどの程度干渉し得たかをみるものである。平時の渡船運行に必要な船人への給与や、日常に使用する船の新造修復費用は尾張藩が行った。幕末における軍隊の移動にかかる費用については、船庄屋が収支の明細をつくり、不足金の手当を藩に願い出るが、支給は願い出た金額の80%程度にとどまった。幕府からの支給も若干あったが、それは尾張藩を通じて支給され、額も十分とは言えないものであった。
 

備考(Remarks)  

1990  近世後期渡船場をめぐる出入りについて  単著   
『南山論集』  , 南山大学  , 第19号  , pp.49-70.  , 1991/03   

概要(Abstract) 美濃路、木曽川起渡船場の支配を司る「船庄屋」の相続をめぐり頻発した船方騒動の内容とその原因を探る。渡船場は元々、本陣、問屋、庄屋等を勤める加藤家の管理下にあったが、街道に関わる諸事務が増加したため、1641年、庄屋と船方支配を脇本陣の佐太郎家に任せた。その後を佐太郎の家筋の者たちが継いでいったが、脇本陣の経営の悪化、借金の積み上がりにより相続が困難になったため、村方の相談の末、1720年、借金の返済と船方支配と脇本陣を林家に任せ、庄屋は別の者が担当することになった。ここに「庄屋」から分離した「船庄屋」という役職が誕生する。林家に借金の返済と脇本陣の経営が任されたのは、船方支配の担当者に、大名のために他所船を提供するときの船の貸借に差益が発生したり、所有する馬船の船役銀を免除されるという特権があったためである。その利益や特権を狙って、はじめ本陣、問屋の加藤家が、その後18C後半から19Cにかけては庄屋が、他の船持と手を結んで林家に圧力をかけた。船庄屋の船方支配が、元々本陣や庄屋の手にあったということが彼らの論拠である。彼らの要望を林家も受け入れ、一時、船庄屋が庄屋と林家の二名になるときもあったが、庄屋と船持の間にも利益配分をめぐってのトラブルが絶えず、結局船庄屋は林家の一人役に帰することになる。 

備考(Remarks)  

1989  起宿船庄屋に関する一考察(修士論文)  単著   
1990/03   

概要(Abstract) 学術論文「近世後期渡船場をめぐる出入りについて」「江戸時代後期における徳川幕府・尾張藩の渡船場支配」「近世における渡船場支配ー尾張藩領内田渡起渡を中心としてー」の内容を含む。
 

備考(Remarks)  

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