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学術論文
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NeoCILIUS
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掲載誌名 Journal name,出版機関名 Publishing organization,巻/号 Vol./no.,頁数 Page nos.,発行年月(日) Date
2016  『ヴィエンヌ聖人歴』Hagiologium Viennenseの典拠をめぐる一考察 ―『ヴィエンヌ聖人歴』はメロヴィング期末期の史料として利用できるのか―  単著   
アルケイア ―記録・情報・歴史―  , 南山アーカイブズ  , 第11号  , pp.1-81  , 2017/03/10   

概要(Abstract) 7世紀半ば~8世紀初めのメロヴィング朝フランク王国の政治情勢に関しては、同時代に書かれた歴史叙述『フランク史書』が依拠されるべきほとんど唯一の作品である。この史料状況にあって、11世紀の『ヴィエンヌ聖人暦』は上記の時期のフランク情勢について『フランク史書』とは一部異なる報告をする。本稿は、『ヴィエンヌ聖人暦』が上記の時期についての史料として利用できるのかを考察するべく、同作品の典拠を探求した。その結果、『ヴィエンヌ聖人暦』は上記の時期のフランク情勢について9世紀の作品『アドン年代記』に全面的に依拠し、一部それを補うために『聖アナスタシオスの事蹟』と『フレデガリウス年代記続編』を参照していること、その『アドン年代記』が『フランク史書』に依拠していることを明らかにした。結論として『ヴィエンヌ聖人暦』が上記の時期のフランク情勢を『フランク史書』以外の何らかの文献・伝承に基づいて記していた可能性はほぼ皆無であるとした。あわせて、『ヴィエンヌ聖人暦』が『フランク史書』から逸脱した記述をしている部分をどう理解するかについて、仮説を提起した。
 

備考(Remarks) http://www.nanzan.ac.jp/archives/kanko/archeia_11-6okachi.pdf 

2015  命名からみた初期カペー家の親族集団意識  単著   
アルケイア―記録・情報・歴史―  , 南山アーカイブズ  , 第10号  , pp.185-220  , 2016/03/07   

概要(Abstract)  本稿は、ロベール・ル・フォール以降のカペー家の人びとにおける命名を分析することで、それぞれの世代がどのような親族集団意識を有していたかを追跡した。
カペー家というと通例、ロベール・ル・フォールに始まって、西フランク王ウード、同ロベール一世、フランク=フランス太公大ユーグをへて、西フランク=フランス王となるユーグ・カペーへとつづく、一貫して父系-男系の親族集団として捉えられることが多い。しかしその時々の当事者たちは、そのような親族集団に属しているとは認識してはいなかった。言い方をかえると、そのような親族集団があると考えてはいなかった。大ユーグとその姉妹は父系・母系の両系から成る親族集団に属していると認識していた。親族集団が自身の父系・母系の両系から成るという捉え方は、ユーグ・カペーら大ユーグの子らの場合も同様である。しかし子らが考える父系・母系から成る親族集団は、当然、大ユーグの考える親族集団とは異なる。彼らは自分たちが自身の父系の親族集団と母系の親族集団(オットー家)の両系から成る親族集団に属すると認識していた。主導名の構成=組合せが変わることで、主導名によって表され維持される親族集団の同属意識も変化することの、典型例である。つぎの世代でも同じ事態が確認されたが、ただ一人、国王ロベール二世だけは、自身がもっぱら父系の親族集団に属するものと認識し、自身の子らもまたこれに属するものと認識していた。おそらくは父子二代にわたって占めた「王位」が親族集団の帰属意識を支える堅固な核となり、親族集団意識の固定化、さらには親族集団そのものの固定化へ一歩進めたものと思われる。ここに、可変的な親族集団から、固定的な国王家門カペー家の成立が確認される。
 

備考(Remarks) http://www.nanzan.ac.jp/archives/kanko/archeia_10okachi.pdf 

2014  記録の中の渾名:混迷の「ユーグ・カペー」  単著  ISSN 1881-7955 
アルケイア―記録・情報・歴史―  , 南山アーカイブズ  , 第9号  , pp.1-40  , 2015/03/16   

概要(Abstract) あだ名というと、われわれは、それが、記憶・伝承の中に生きてきたものが文字に記されて表出するもの、と考えがちである。しかし、あだ名で呼ぶという行為は匿名性が高いゆえに、そのあだ名が登場した時点ですでに、その意味するところが必ずしも正確に伝わっているとは限らない。あだ名はひとたび登場すると、対象者であれ、あだ名自体であれ、正確に記憶され伝えられるとは限らず、そのあだ名自体がまさに自律的な―聞き、読み、記録する人たちによる勝手な―展開を見せ、また対象者とあだ名に整合性を欠くことも少なくない。
本稿はそうした例としてフランス王ユーグ・カペーのあだ名「カペー」を取り上げた。このあだ名はもともとユーグ・カペーの父、大ユーグに、彼の死の半世紀以上後に付けられたものであり、それ自体どのような意味でつけられたかは不明である。その後、彼と同名の息子との混同から、息子ユーグ・カペーも、その死の約1世紀後に、このあだ名で呼ばれるにいたった。そのため、中世の人びとはユーグ・カペーのあだ名に関しては、彼自身の伝承から伝え知ったのではなく、記されたもの、記録されたものの中から知り、そして読み取ったのである。そこから各人が各様に解釈を展開することになり、新たな伝説が生まれることにもなる。「カペー」の意味はさまざまに捉えられるが、その一因はここにもあると思われる。
 

備考(Remarks) http://www.nanzan.ac.jp/archives/kanko/archeia09_okachi.pdf 

2013  中世前期・東フランク=ドイツ王国における「宮廷アーカイヴ」  単著  ISSN 1881-7955 
アルケイア―記録・情報・歴史ー  , 南山大学史料室  , 第8号  , pp.49-103  , 2014/03/18   

概要(Abstract) カロリンガー末期~オットー・ザーリア朝期東フランク=ドイツ王国には宮廷アーカイヴは存在しなかったといわれる。何故なら当時は巡行王権の下、王は宮廷とともに年中旅の途上にあり、宮廷アーカイヴに相当するものは特定の王宮には存在せず、王とともに年中旅していたからである。国王とともに宮廷教会の聖職者たちが旅をする。彼らのうちの幾人かが書記を兼ね、国王の文書作成などの文書行政に携わる。宮廷アーカイヴに相当するものとは、彼らが旅において携行した文書類に他ならない。そこでは現代的意味におけるアーカイヴ活動がなされえたとは思われないが、書記たちは書式の継承を通じて、古代末期~カロリンガー期の皇帝文書・官僚文書の基本的枠組みを、中世後期に至るまで継承するという、歴史的役割を果たした。しかし彼らの属する書記局は制度的に完備されたものではなく、存在したのは書記の役割を担った人々でしかない。しかも書記は時に一人で活動する時期もあり、恒常的な存在ではなかった。こうした制度的脆弱性にもかかわらず、上記の歴史的使命を果たしえたのは何故か。本稿では、ルードヴィヒ幼童王期の書記局・書記の文書作成活動について考察した。書記たちの携帯したアーカイヴの中身については、個人的な「書式集」と若干の国王文書の控えが推測されるものの、それ以上は不明であり、総じて、内容豊かではないと推測される。しかしながら文書作成にあたって、彼らと受領者側、とりわけ教会・修道院との不断の接触が見られる。教会・修道院ではたえず王権に自己の所領・権利の確認を求め、そのさい証拠として先任諸王の文書を携えた。彼らは権利の物的証明手段である国王文書の保存・管理に腐心し、真の意味でのアーカイヴを有していた。おそらくはこうした教会・修道院との文書作成段階でのたえざる接触・関わりが、「参照枠」として、書記局・書記の側の「アーカイヴ」の「不備」を補完したと思われる。書記たちの不断の活動が、期せずしてアーカイヴ活動となっていた。受領者側、教会・修道院など在地の側から見るなら、彼らのアーカイヴ活動が、より大きな枠組みでのアーカイヴ活動に寄与することができたといえる。
 

備考(Remarks) http://www.nanzan.ac.jp/archives/kanko/archives_08_4.pdf 

2012  『フレデガリウス年代記』研究 1  共著   
アカデミア 人文・自然科学編  , 南山大学  , 第5号  , pp.105-113  , 2013/1/30   

概要(Abstract) 本稿は、7世紀半ばまでのフランク史を研究する上で重要な史料『フレデガリウス年代記』に関して、当時の政治史を概観しつつ、主として作者像をめぐる論争を簡潔に俯瞰したものである。抑々作者とされる「フレデガリウス」という名前それ自体が、情報源の明らかでない16世紀の書き込みに由来しているが、それ以上にさしたる手掛りがないこともあって、この名が使われてきた。他方、この作品に何人の手が加えられているかという点に関しては、19世紀以来、議論が展開され、B.クルシュは、すでに1882年の段階で3人説を唱えている。彼によればこの年代記は613、642および658年に順次書き継がれたとされる。クルシュ以降、現在最も影響力を持っているのは、1人説を採るW.ゴファートである。彼は、詳細な歴史叙述がが必ずしも同時代性を示すわけではなく、生き生きとした描写はむしろ作品のフィクション性を表していると指摘し、この作品が658年に1人の作者によって書かれたと考える。本稿は、今後進めるこの年代記の主要部分の翻訳と注の前提として、如上の作者問題に焦点を絞って研究史を紹介した。 

備考(Remarks) 共著者 杉浦武仁 

2010  911年・シュヴァーベンにおける「騒擾」(tumultus)--シュヴァーベン太公権形成前史・覚え書--  単著   
『アカデミア』文学・語学編  , 南山大学  , 89号  , 227-271  , 2011/1   

概要(Abstract)  『モンツァ本アレマニエン年代記』が伝える911年・シュヴァーベンの「騒擾」は, 従来, 貴族権力によるアレマニエン=シュヴァーベン地域における主導権, すなわち太公権の獲得・確立をめざした角逐・競合の一コマと見なされてきたが, そこに至る諸勢力の動静等について描くことは, 史料の制約から断念されてきた。こうした状況に対し近年, 「宮廷伯権力」に注目し, これを太公権力の「前段階」として, ここから, 太公権形成にいたる過程を動態的に捉えようとする考えが提起されてきている。同時に911年の「騒擾」については, これを太公権形成問題と無関係とする所説も提出されている。本稿ではシュヴァーベン太公権形成前史としての「宮廷伯権力」をめぐる所説を紹介し, この所説を時代を読み解く一つの有効な捉え方と位置づけ, また911年の「騒擾」については従来どおり太公権形成史の中で読み解かれるべきと結論づけた。合わせてかの「騒擾」と同時進行していたと思われるコンラート1世国王選挙をどう捉えるべきかについて, 言及した。 

備考(Remarks)  

2008  『第2アルヌルフ伝』小論  単著   
『アカデミア』人文・社会科学編  , 南山大学  , 87号  , 101−127  , 2008/06   

概要(Abstract) 『第2アルヌルフ伝』は1725年に刊行された“Acta Sanctorum Julii 4”に収録された、メッツ司教アルヌルフ(c.640没)の伝記である。当人からはかなり後年に書かれたもので、わずかに19世紀末にボネルによって研究対象とされたにすぎない。そのボネルは本作品をまったく価値のない伝記と評価し、成立時期については10世紀半ばとした。以後ほとんど研究対象とはされず、ボネルに従って書誌学的に10世紀の作品として言及されるに留まってきた。本論文は、本作品中の文言を10世紀のものと見てよいかどうかの問題から、改めてその成立時期について考察したものである。ボネルの推察の根拠をも含めた考察から、作品の成立は9世紀末以降、ボネルの注目点を活かすなら10世紀末以降であるとしかいえず、10世紀のものと断定することはできないと結論づけた。あわせて、テキスト上の問題点をあげ、今後の文書学的考察のさいの課題を指摘した。 

備考(Remarks)  

2006  ピピンはいつから短躯王と呼ばれたか:ヨーロッパ中世における「渾名文化」の始まり−プリュム修道院所領明細帳カエサリウス写本・挿画の構想年代について−  単著   
『アカデミア』人文・社会科学編  , 南山大学  , 84号  , 197-262  , 2007/01   

概要(Abstract) プリュム修道院所領明細帳カエサリウス写本の冒頭の挿画には、同修道院創健者とされるピピン短躯王とカール大帝父子が描かれる。従来この挿画は写本作成者カエサリウスの構想になるものとされ、彼の心性を推し量る一材料ともされてきた。本稿では、同修道院にこの写本以前に同様な構図・詞書の図像が存在することなどから、挿画がカエサリウスの構想になるものか問題提起し、新たな視点から挿画の構想年代の確定に迫った。挿画においてピピンは背丈を低く描かれるが、それは、この種の図像が読み解かれることを前提としていることから、短躯という渾名の形成・浸透を前提としていると判断される。ヨーロッパ中世においては多くの君侯が渾名で呼ばれ、「渾名文化」が繁栄したが、本稿ではこれが中世全般にわたってみられた現象ではなく、9世紀末−10世紀初に始まったものであることを示した。ピピンの短躯という渾名も、彼の死から約300年後の11世紀半ばに初出し、浸透したものであることを確認した。これらを踏まえ、カエサリウス写本・挿画の構想年代として、可能性のある3つの年代のうち、13世紀初、まさにカエサリウス写本が作成されたおりがそれであると結論づけた。 

備考(Remarks)  

2005  ボゾー・フォン・ヴィエンヌの国王選挙(879年)小論―初の非カロリンガー王権の正当化をめぐって―  単著   
―南山ゲルマニスティク― 光環(CORONA)  , 南山大学大学院文学研究科独文学専攻課程  , 17号  , 39-55  , 2006/03   

概要(Abstract) 879年ボゾー・フォン・ヴィエンヌの国王選挙は、カロリンガー・フランク王国において初めて非カロリンガーを国王に選出した選挙として注目されるが、本稿は、この王権の正統性が何に立脚していたかを考察した。選挙人=聖職者たちの用意した王権正当化の要点は、神意に基づく教会−聖職者主導の選挙と、ボゾー自身の適格性にあったが、その適格性も神意・神恩に裏打ちされたものと位置づけられ、原理的には、教会−聖職者による適任者の「自由な選挙」が前面に打出されていた。この国王選挙に窺われる理念は、教会−聖職者主導の自由選挙を主張する点で、西フランクで育まれてきたキリスト教的、神政的官職観・国家観の発展における一つの到達点を示すものであり、また適格者の自由な選出の考えを提起する点で、国王選挙の歴史の上で一つの画期をなす。ただし、879年のこの事例の場合、こうした理念は、選挙者の行動それ自体の正当化に終わり、全き意味における適格者の自由な選出というところにまで昇華しえなかったところに、その限界があった。 

備考(Remarks)  

2005  年代記史料はうそをつかないか―『モンツァ本アレマニエン年代記』のテキスト構造―  単著   
『アカデミア』文学・語学編  , 南山大学  , 79号  , 95-156  , 2006/01   

概要(Abstract) 中世における歴史叙述の一形式としての「アナーレス=年代記」は、年代と出来事のみを記す作品とされるが、実際には一つの作品に複層的な作品形式が見られることが少なくない。しかし一般的には、年代と出来事のみを記す作品で、事実がありのままに記されている、と見られがちであり、結果、しばしば史料批判の手続きを経ずに、引き合いに出される。本稿ではそうした作品と思われる『モンツァ本アレマニエン年代記』をとりあげた。同年代記は10世紀初の東フランク−ドイツ情勢を告げる数少ない同時代史料であり、よく、その記載の一部が提示され、そのまま事実として取り扱われる。本稿ではここに書かれている内容、書き方などから、テキスト上、特徴的な点をさぐり、同年代記は「年代記」と冠されるものの、単なる記載を越えた記述が散見され、ことに、比較的長文からなる911・912年項についてはそれぞれ、年代枠に捉われずに一つの継起的な出来事を主題として、あるいは非常に主観的に「叙述」し、あるいは事実関係を比較的粗く「要約」したものであることを指摘し、全体として作者によって事実関係が「加工」された作品であると結論づけた。 

備考(Remarks)  

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