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学術論文
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年度
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論文題目名
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Collaboration
   Classification
NeoCILIUS
   請求番号/資料ID
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掲載誌名 Journal name,出版機関名 Publishing organization,巻/号 Vol./no.,頁数 Page nos.,発行年月(日) Date
2022  青年と二重の差異化―脱コード化と再コード化の理論―  単著   
アカデミア 人文・自然科学編  , 南山大学  , 第24号  , pp. 37-50  , 2022/06   

概要(Abstract) 子どもでもなく大人でもないものとして青年は、二重の差異化によって生成した。このことをふまえ、本稿は「脱コード化」のプロセスを論じた。子どもからの差異化は脱コードⅠ、大人からの差異化すなわち既存の文化秩序に対する差異化を脱コードⅡで示すが、欧米における青年の生成が、もともと存在していた分断を乗り越えるためにロック音楽が大きな役割を果たすことになった経緯において脱コード化Ⅱに偏っていたことが示された。また、脱コード化の運動は、同時に再コード化するものとしての青年文化市場も生み出し、脱コード化を市場の中に取り込んでいくことも論じた。抵抗の運動である脱コード化は、自己否定を恒久的に続ける必要があるがゆえに、抵抗はジレンマに陥る。他方、再コード化は脱コード性そのものを商品化し、市場をますます巨大なものにしていく。こうして制度化された青年が創り出される。欧米の青年文化において顕著ではなかった子どもコードからの差異化(脱コード化Ⅰ成分)は、翻って、現代日本の青年文化の構造の解明において大きな役割を果たしていたと推測される。 

備考(Remarks)  

2021  エスと機械―『アンチ・オイディプス』のミクロ-マクロ問題への寄与―  単著   
アカデミア 人文・自然科学編  , 南山大学  , 第23号  , pp. 35-44  , 2022/01   

概要(Abstract) ドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』が提示する概念装置、特に「機械」が、社会学理論の構造的アポリアである「ミクロ-マクロ問題」にどのように接続できるのかを論じた。そのために、この著書の従来の論じられ方である思想革命や、精神分析の問題圏といったものから、あえて切り離しながら社会学的意義を検討した。「機械」は、実はフロイトの「エス」に由来するものであるが、ドゥルーズとガタリが、クラインやラカンを経由して「機械」として再構成しなくてはならなかったその理由こそが、社会学における「ミクロ-マクロ問題」の核心とつながるものである。また、『千のプラトー』やドゥルーズの著作で展開される「リゾーム(根茎)」や「アジャンスマン」「アサンブラージュ」といった概念もまた、社会学が「ミクロ-マクロ問題」を超える際のモデルとなるであろうことを示唆した。 

備考(Remarks)  

2021  ミクロ-マクロ問題を組み直す―ブリュノ・ラトゥールとANT―  単著   
アカデミア 人文・自然科学編  , 南山大学  , 第22号  , pp. 75-90  , 2021/06   

概要(Abstract) 1980年代以降、社会学理論の構造的アポリアとして姿を現した「ミクロ-マクロ問題」(MMP)、すなわち主体か構造か、行為者かシステムか、相互作用か全体かをめぐる問題は、いまだに解決されたとはいえず、むしろ社会学にとっての宿痾のようなものになっている。本稿では、ミクロ-マクロ・リンク(MML)の類型とその問題を検討したうえで、それを越える理論地平を示したラトゥールの「アクターネットワーク理論」(ANT)を概観して、ANTがMMPをいかに克服しているのかを示す。そして、ドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』における「機械」、『千のプラトー』における「リゾーム」とANTとの関係を示唆する。 

備考(Remarks)  

2020  ウェーバー行為論の物語論的転回に向けて―ミルズとシュッツからの発展―  単著  2185-3282 
アカデミア 人文・自然科学編  , 南山大学  , 第21号  , pp. 87-98  , 2021/01   

概要(Abstract) ウェーバーの行為論は、主観的に思念された意味によって行為を定義するために、あたかもパーソンズの社会システム論や相互作用論、現象学的社会学などへとそれぞれ継承され、その独自性はこれら確固とした学派の行為論へと解消されてしまったようにみえる。ウェーバー行為論において、行為は意味と理解をもって成立しているとしたことはその後の社会学では修正され批判されてきた。しかし、ウェーバー行為論の主観的に思念された意味の客観的性格は、ミルズの動機の語彙論によってその共有知識としての性格が示され、同時に範例的ストックという観点が開かれた。さらに、そこからは連辞的ストックの可能性も導き出され、両者を保持するものとして物語というモデルが示された。物語論は、行為の動機の抽象的な構造の分析を可能にしてくれる可能性を示すのであり、本稿は、これら物語論の成果を、行為論に結びつけて論じるための予備作業となることを目的とした。 

備考(Remarks)  

2016  〈子どもコード〉の生成と展開―児童文学と特撮テレビ番組の分析―  単著  AA12516006 
アカデミア 人文・自然科学編  , 南山大学  , 第13号  , pp. 39-50  , 2017/01/31   

概要(Abstract) 従来の子ども文化の研究は、歴史と批評へと収斂してきたが、前者は子どもを歴史的にとらえることができず、後者は批評という場に開くことで分析的な作業を難しいものにしてしまった。本稿では、「子どもコード」という概念を提案し、それによって子ども文化の内実を記述することができることを示した。19世紀半ば以降から20世紀にかけての児童文学の分析により、コードの内側とその外部諸要素を仮説的に定式化した。これは、1960年代の日本の子ども向け特撮番組においても見られること、さらに「子どもだまし」という要素が加わっていることを明らかにした。そして、「過コード化」の概念を用い、子ども文化がより子どもらしいものへと収縮している現象についても取り上げた。最後に、コード理論の可能性として、青年文化と脱コード化・再コード化などとの関係について素描し、新たな課題として提起した。 

備考(Remarks)  

2016  デュルケムの〈分析-構築〉における道徳教育論  単著  AA12516006 
アカデミア 人文・自然科学編  , 南山大学  , 第12号  , pp. 23-36  , 2016/06/30   

概要(Abstract) 黙殺されるか、あるいは教育社会学的に扱われるかのどちらかだったデュルケム教育学は、デュルケム社会学と〈分析-構築〉というべき関係を有していることをまず論じた。この〈分析-構築〉が現代の社会学に重要な示唆を与える可能性を考察したうえで、〈構築〉の最たる著作である『道徳教育論』のテクスト構造を検討した。まず、〈分析-構築〉が『モンテスキューとルソー』に原型を持ち、〈分析〉の部分が「モンテスキュー論」と密接な関係をもつことをふまえたうえで、「ルソー論」と『道徳教育論』との関係を精査していくと、ルソーが実践の理論として、モンテスキューが分析の理論において得ていた位置とは異なる扱いを受けていたことが判った。デュルケムは、ルソーに由来する部分(「社会集団への愛着」)以外に、非ルソー的な「規律への精神」を新たに設け、道徳教育を論じていた。規律への精神が子どもの内部に確立されることは、フーコーのいう生権力の一つである「規律型権力」が行使されることとして考えられ、生政治の介入を見て取ることができた。このような介入ゆえに、デュルケムの〈分析-構築〉を、現代のグローバル社会におけるグローバルシティズンシップ教育へ写像する可能性に対しては、より広汎で深い考量が必要であることが示唆された。 

備考(Remarks)  

2015  ポストモダン教育社会学の展開と隘路、そして生政治論的転換  単著  AN0005780X 
教育社会学研究  , 東洋館出版社  , 第94集  , pp. 5-24  , 2014/05/31   

概要(Abstract) 「ポストモダン」論によって影響を受けた1980年代後半の日本の教育社会学を「ポストモダン教育社会学」と呼ぶことにする。それは、「モダン」としての教育・学校制度の異化に向かったが、アリエス、ブルデューと並んでインスピレーションの供給源となったのが、『監獄の誕生』におけるフーコーの「規律訓練」の視点であった。しかし、1990年代以降の教育システムの変動によって、異化の手法で捉えられた教育・学校制度の理解は不十分なものとなり、ポストモダン教育社会学の訴求力も低下していく。他方、フーコー研究においては、2000年代以降、規律訓練の概念が「生政治」論の一部であることが明らかになるのだが、1990年代以降の教育システムは、まさにこの生政治論的視点からよりよく捉えうることをフーコー理論を概略しながら論じた。 

備考(Remarks)  

2013  生政治の〈介入〉とはいかなる事態か―フーコー『知の考古学』における権力作用の研究―  単著  AA12516006 
アカデミア 人文・自然科学編  , 南山大学  , 第7号  , pp. 1-14  , 2014/01/30   

概要(Abstract) ミシェル・フーコーが主張した生権力は、テクストへの介入という形態をとると考えられることから、生政治ないし生権力の行使のされ方についての検討が必要となった。その結果、諸思想家が生権力概念をさまざまなかたちで解釈し発展させているにもかかわらず、どの思想家も(1)生権力を、施行された政策・慣習が転化した制度・考案された様々な装置によってのみ執行されるものとして捉えている、(2)生政治・生権力が、フーコーの著作全体を貫くキー概念として積極的にとらえていないだけでなく、『知の考古学』との関連をほとんど考慮していない、(3)『知の考古学』を孤立した単独著作として捉える傾向があるだけではなく、フーコーの意図とは逆に、物質的実践ではない言説の分析に関わる研究として捉える傾向がある、ということがわかった。本稿では、言説が物質的実践であり、介入であることを『知の考古学』に即して示し、『知の考古学』が、生権力の〈介入〉の内実を分析する手立てとなる研究であることを主張した。 

備考(Remarks)  

2009  フロイトのテクストにおける生-政治の介入―「性欲論三篇」におけるヘゲモニー的リビドー体制―  単著  AN00132224  
アカデミア 自然科学・保健体育編  , 南山大学  , 第15巻  , pp. 17-28  , 2010/01/30   

概要(Abstract) フロイトの「性欲論三篇」のテクストの変容を検討し、それがフーコーの述べる「生-政治」の具体的な表出形態であることを主張した。「性欲論三篇」の1905年初版と1915年以降の追加修正とを比較すると、多形倒錯的なリビドーという初期の概念が、生殖に方向づけられたリビドー体制のもと再概念化されている。1905年版の「性欲論三篇」の第一論文においては、リビドーは「多形倒錯的」、すなわち対象との自由な結びつきを秘めるものと考えられた。そのなかでも、特に身体的発達に基盤を有する場合があり、それらは口唇体制・肛門体制・性器体制として語られている。1905年版において、リビドーは多様なあり方を承認されている。しかし、1915年以降「男根期」の概念が導入されることで、これらの体制は、ばらばらの「諸」体制ではなく、成人的なセクシュアリティへと方向づけられた「段階」として整序されることになる。「性的な活動」は「生殖活動」と言い換えられ、段階づけをはっきり示した一節が書き加えられる。これらの変更の結果として、第一論文が述べる多形倒錯的リビドーは、その叙述に変化はないものの、そうした段階からは外れた「変態」性欲として劣位なものへとその位置を変えることになってしまう。そして、生殖に方向づけられたリビドーが「正常なもの」として、優位に置かれる。本稿は、このようにして諸リビドー体制が序列化された全体体制を「ヘゲモニー的リビドー体制」と名づけたが、このような体制化こそが、フーコーの述べる「生−政治」の現出形態である。生−政治は、生、生殖、医療などに権力が浸透する状況を示す概念であるが、フロイトにおけるヘゲモニー的リビドー体制の成立は、生への社会的管理の一例であることが本稿で示された。 

備考(Remarks)  

2023  教育政策とテレビの言説編制―こども家庭庁をめぐる報道のテキスト分析―  共著   
『アカデミア 人文・自然科学編』  , 南山大学  , 第27号  , pp. 19-37  , 2024/01   

概要(Abstract) テレビの教育報道は、物語的な意味論的構造を作りがちであるが、非物語的・散文的な教育政策のジャンルがどのようにテレビの意味論的構造に適合しないのかを、新聞記事との比較によって明らかにした。筆者らの構築したデータベースから「こども家庭庁」を教育政策報道のトピックとして選び(2023.4~6)、テキストマイニングによって新聞記事言説の意味論的構造と比較した。その結果、非物語的困難を二つ指摘することができた。第一に、まだ物語化されていない要素を均等に示すことの困難であり、第二に、要素同士の構造を示すことの困難である。 

備考(Remarks) 共著者:井上剛男(鈴鹿大学短期大学部)、越智康詞(信州大学)、酒井真由子(上田女子短期大学) 

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