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学術論文
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年度
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論文題目名
Title of the articles
共著区分
Collaboration
   Classification
NeoCILIUS
   請求番号/資料ID
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掲載誌名 Journal name,出版機関名 Publishing organization,巻/号 Vol./no.,頁数 Page nos.,発行年月(日) Date
2015  宣教と典礼  単著   
日本カトリック神学院紀要  , 日本カトリック神学院  , 第6号  , pp.45 -62   , 2015/08/31   

概要(Abstract) 本小論は、第二バチカン公会議(1962年~1965年)から50周年記念期間の行事として行われている一連の記念講演会で発表したもの(2013年11月9日東京、四谷、2014年9月23日、長崎カトリックセンター)を会場での質疑応答を踏まえて改稿し論文化したものである。その際、講演で言及することのできなかった内容について詳細な注を付し、本文への理解を深められるよう工夫した。1、初めに-第二バチカン公会議の教会刷新と典礼刷新 2、典礼祭儀への行動的参加 3、宣教活動における典礼祭儀の意義 4、まとめ-典礼と宣教への行動的参加 の流れで論述。典礼刷新の際、強調される「行動的参加」(Partecipatio actuosa)は、狭義の祭儀における営みではなく、祭儀を超え出て、日常の信仰生活と宣教活動における「行動的参加」でなければならない、と結論する。 

備考(Remarks)  

2014  アンティオキアのイグナティオスにおける殉教理解  単著   
南山神学  , 南山大学人文学部キリスト教学科  , 38号  , pp.85-108  , 2015 /03/31    

概要(Abstract) 二世紀初頭の「使徒教父」アンティオキアのイグナティオスの聖餐観ヘ接近するために、彼の殉教理解を検討する小論。イグナティオスがローマでの殉教へ護送される途上,各地のキリスト教共同体へ送った七通の手紙には、新約聖書には見られない語彙や発想がみられる。聖餐に関する表現である「不死の妙薬」(farmakon athanasias)もその一つである。これが新約的伝統からの逸脱とみられることもある。しかし、彼の聖餐観は、いくつかの単語や言い回しからのみ捉えられるべきではなく、全体的な文脈から理解されなければならない。従来の宗教史的文脈、手紙内文脈に加えて、彼の実存的文脈といえるその「殉教」を視野に入れるべきである。
なぜなら、殉教と聖餐と中核とするキリスト教典礼祭儀との間には、一種のアナロギーが存在するからである。両者とも、一方で、明確な論理になりにくい受動的な宗教体験が中心にあり、他方で、必然的な「からだ」をもって応答する能動的な行為を必要とする、という点がそれである。
七通の手紙の分析を通して得られた結論は以下のようである。彼において殉教は三つの側面から考察することができる。第一は、救いが実現するとき(kairos)としての殉教、第二は、信じる者への誠実さの結果としての殉教、そして第三に、私事化された出来事ではなく公開性をもった行為としての殉教である。救済論的文脈において、自らの殉教と聖餐との関連を見逃すことはできない。キリスト論的発言の中にも聖餐とのつながりを示すものが多数存在する。さらに、教会論的発言の中に、きわめて特徴的に、教会共同体と聖餐のつながりが語られている。七通の手紙における彼の殉教という行為は、教会的一致への配慮に支えられていることが明らかである。
このような殉教理解が彼の聖餐理解とどのようにつながっており、それが現代のキリスト教の聖餐理解にとってどのような意義を有しているかを検討すること次の課題である。 

備考(Remarks)  

2007  「あがないの秘跡」の受け取り方  単著   
南山短期大学紀要  , 南山短期大学  , 第35号  , pp.35-46  , 2007/12/00   

概要(Abstract) 第二バチカン公会議(1962年~1965年)の典礼刷新は、第一の実りである「典礼憲章」にみられるように根本的な骨格を提示し改革を促すものであった。その後に出版される教会公文書は概して二種類のものがある。第一は、当公会議で公布され文書を内容的に補足したり展開したりするもの、第二は、現代への適応に関する性急さや誤りを正そうとするものである。本小論では、2004年3月25日にバチカン典礼秘跡省から出された指針『あながいの秘跡』(Redemptionis Sacramentum)を、第二の部類属するものであると位置づけ、その由来、内容、両義性について考察し、その受け取り方と実践の際の留意事項を記すものである。本指針では、結論だけが述べられているので、それらの背景と理由についての解説が必要となる。その際、『典礼憲章』をはじめ『ローマ・ミサ典礼書の総則』や『主の日ー日曜日の重要性』等と合わせて参照する必要がある。そのような司牧者らの配慮と努力が、信者を典礼へ行動的参加を促すため本指針を生かすことになる、と提案する。本指針は、生きている典礼史の中に正しき位置づけられる時その意義を発揮することになる、と結論。本小論は、2007年9付3日から5日にかけて長野県、中軽井沢で開催された「全国典礼担当者会議」で発表されたレポート改稿したものである。 

備考(Remarks)  

2004  ミサの始め-開祭の意義についてー  単著   
南山短期大学紀要  , 南山短期大学  , 第33号  , pp.51-74  , 2005/12/00   

概要(Abstract) 「感謝の祭儀」(通称、ミサ)を構成する四つの部分(開祭の部・ことばの典礼・感謝の典礼・閉祭の部)のそれぞれが人間の実存論的構造に対応する仕方で構成されていることーつまり、人間性の個人としても共同体としても回復と新生を可能とする構造に対応-を概観した上で、開祭の部分の構成要素とそれぞれの歴史的背景と現行の式次第における意義について考察するもの。最後の問題点を提案を提示し、結論として、「開祭の部分」はミサ全体への導入部であるが、祭儀全体のトーンをある意味で設定する重要な部分であることを確認する。 

備考(Remarks)  

2004  「祝福式」の可能性  単著   
南山短期大学紀要  , 南山短期大学  , 第32号  , pp.239-256  , 2004/12/00   

概要(Abstract) 「祝福」ということの聖書的背景を一瞥した後、教会史における祝福の祈り、215年ころのローマにおける『ヒッポリゥトスの使徒伝承』、シリアの『ディダスカリア』、アレキサンドリアの『セラピオンのエウコロギオン』に含まれる種々の祝福の祈りから始まるその後の展開を紹介し、教会の歴史が祝福の歴史であると表現してもよいほどであること、そしてその現象は逆にそれらの時代が祝福が必要とされる状況であったことの証左でもあることを暗示しているもと言える。本小論は、1983年にバチカンの典礼省から発行された『祝福式』(De Benedictionibus)を、その冒頭にある「総則」の神学的内容を要約し、肝要なことは、「聖霊」は儀式書の「総則」の中閉じ込められることではなく、個々の祝福の祭儀の中で実際に耐機縁されることであることを提唱する。そして、キリスト教典礼の「祝福式」には特徴として、イエスによる新しい価値観への招待、他者へ向かう働きの必要性が含まれるべきであることが指摘され、最後に、将来の邦語による『祝福式』の作成の際にこれらの点に留意さることが述べられる。なお、本小論は、2004年9月8日から10日にかけて、北海道、灯台の聖母トラピスト大修道院において開催された「全国典礼担当者会議」で発表されたレポート改稿したものである。 

備考(Remarks)  

2003  典礼集会について  単著   
南山短期大学紀要  , 南山短期大学  , 第31号  , pp.245- 263   , 2004/01/00   

概要(Abstract) 宗教においては「形式」と「反復」が必要となるが、それ以前に「集うこと」が前提となっている。これはキリスト教においても同様である。しかし実際にはこの集いの重要性が認識されているとは言い難い。本小論は、第二バチカン公会議における教会刷新、典礼刷新における「集い」の重要視されるプロセスを辿り、特に、典礼祭儀にからだをもって実際に集い、聖書等からのメッセージに身をさらす中で新しい自己に生まれ変わる経験がある得ることを示唆する。すべての典礼祭儀は「集う」ことから始まる。「われわれはドミニクスなしには生きることができない」とはアビティ-ナの殉教者の尋問者に対する答えであるが、ドニ二クス(主のこと)という形容詞は、主の日、主の家、主の祈りを意味し得るが、これらは「主の集い」へそ総括される。こうして、上の殉教者の言葉は「われわれは主の集うなしには生きていくことができない」と敷衍できる、と結論。 

備考(Remarks)  

2002  アナムネーシスー「想起する」ということ  単著   
南山短期大学  , 南山短期大学紀要  , 第30号  , pp.187-200  , 2003/01/00   

概要(Abstract) 聖書や典礼における「想起」は過去の単なる思い起こしという意味ではない。旧約聖書のツィッカローン、新約聖書のアナムネーシス、典礼におけるコンメモラーチオは共通点がある。それは、主観的で感傷的なそして時として恣意的な思いだし、想い出という静的な意味ではなく、非常にダイナミックで「現在」にかかわる能力である。教会史、教義史、典礼史が示す通り、キリスト教は具体的な状況に対応する仕方で絶えず変化してきた。しかし、そのような変化の中で唯一の変わらぬ要素はイエス・キリストに対する信者の共同体的なアナムネーシスである。これが、本来のキリスト教であるか否かの試金石となる。過ぎ越し秘義を共同で想起することがキリスト教の中心であり存在意義である。そして、これは単に「ミサ」の中心であるだけでなく、その他の「秘跡」の源であり、「典礼歴炎」の心臓、「時の典礼」の基礎、そして、最後に、キリスト者の生活の中心となる。こうして、祭儀的想起は信者の実存的想起と密接につながっていることが確認される。 

備考(Remarks)  

2001  典礼の基本的な構造と意味  単著   
南山短期大学紀要  , 南山短期大学  , 第29号  , pp.165-182   , 2001/12/00   

概要(Abstract) キリスト教典礼とは、ナザレのイエスにおいて顕わになったと信じられた神の人間への語りかけに対する人間の応答のひとつである。それは「人間の」応答であるから、地理的、文化的、時代的要因によって多様性が生じる。要は、東西両教会に共通の構造ないし要素が何であり、独自性が何であるかを共に把握することが大事となる。全教会に共通する点は、①神からの近づき(カタバーシス)と人間からの応答(アナバーシス)があること、②個人的な祈り、瞑想ではなく、教会共同体の公の行為であること、③イエス・キリストの過ぎ越しを中心に据えていることが上げられる。これらの基礎の上にある多様性は無視されたり我慢されたりするものではなく歓迎されるべきものである。なぜなら、それらは一つの「秘義」の様々な側面を示す象徴であるからである。さまざまな典礼様式は、それらを生み出した「いのちそのもの」と触れ合うように、また、そのいのちそのもに生かされてわれわれの人間性が開花することを促す祝祭である、と言える。 

備考(Remarks)  

1998  「主の祈り」の口語訳によせて  単著   
南山短期大学紀要  , 南山短期大学  , 第26号  , pp.103-119   , 1998/12/00   

概要(Abstract) 日本における「主の祈り」の邦訳の歴史は1592年に遡り、現在までに30を超す邦訳がなされている。本小論は、1972年1月井10日に日本キリスト教協議会・信仰職制委員会よりなされた「主の祈り」の統一訳に促されて開始されたカトリック教会における邦訳の経緯を辿り、その邦訳の困難さを指摘しながら同時にその重要性を再確認し、その共通理解に立って口語訳の可能性を探るものである。なお、本論は、1998年5月18日から20日にかけて長野、軽井沢で開催された「全国典礼担当者会議」で発表されたレポートを改稿し論文化したものである。 

備考(Remarks)  

1996  人間関係論のキリスト教的背景  単著   
南山短期大学人間関係科紀要  , 南山短期大学  , 第14号  , pp.42-50  , 1996/12/00   

概要(Abstract)  

備考(Remarks)  

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